主義主張がない“悲しき雄ライオン”の絶望がこだまする(その2)

今回の連作コラムを書き始めた日は、いわゆる京アニ放火事件の3回忌にあたる日だった。放火犯が絶望感に囚われ、家族からも孤立した果ての蛮行だった。男はひとりでは生きられない。ひとりで生きているつもりでも、実は社会と家族とのつながりがなければ、やがて破滅に至る。もちろん、ごく少数の話。

ここで取り上げた犯人は、自分の中にその影が投影されていると感じさせる。それは“今田勇子”から感じたような気がする。自由とバブルを謳歌している中で、忍び寄る孤独と破滅に向かう絶望を呼び覚ます。しかし、それをいつしか忘れ去り日常に生きる。それが普通の人間なのだが、どうしても例外がいる。

筆者は多少なりとも家族とのつながりはある。親の自宅介護の面倒を多少なりとも見ながら、家業に従事している。そのために会社を辞めたので、社会的なつながりからは切られているといえる。家族は煩わしいが、それを支えるためにもう一度世間に出るかすかな準備をしている。他人を殺める暇なんかない。

安倍元首相を暗殺した男に同情はしない。だが、その行動に「悲しき雄ライオン」を思い起こす。ライオンは群れから追われると死ぬしかない。犯人は人間の群れから存在の全てを切り離されたことで、他者を巻き込んでても死を選び、そのために戦う。その心の叫びがライオンの死への咆哮に聞こえるのだ。